HIV感染していることを周りに伝えるべき?(その1)
PWA Speaker:
感染者は、感染していることを、友人や家族に伝えないでいることで、後ろめたい気持ちになる。
それは、なにか、隠し事をしているような感じ。
本当は、伝えたい、伝えないといけない、伝えないから、周りとの距離がある.....
とにかく、感染していることを周りに伝えないことは、周りに「隠し事」をしていることになると、思ってしまう傾向にある。
しかし、なぜ、感染していることをまわりに伝えないことが、「隠し事」のように捉えてしまうのか。
たとえば、伝えたからといって、
周りが治してくれるわけではない。
ただ、伝えることで、周りがこれまでと同じように受け入れてくれることで、感染者側には、安心感を得ることができるということかもしれない。
しかし、感染していること自体、周りがそれを「受け入れる」「受け入れない」と、判断すべきことなのだろうか。
今ふうにいうならば、受け入れる側は「上から目線」の立場にしか思えない。
人が大勢集まれば、その中には好き嫌いは当然生じるし、また、受け入れられる・受け入れられないことは当然ある。
人それぞれ、違うのだから、それはいたしかたない。でも、感染者側が、言わないことで、後ろめたさを感じたり、言って受け入れてもらえることで、安心したりする、この仕組みはいったいなんなのだろうか......
ことの発端は、80年代にさかのぼる。エイズ=死というイメージから、エイズは怖がられた。そして、当時、流行の兆候を見せだした集団に「同性愛者」「売春婦」「麻薬患者」が上げられた。
キリスト教の影響が強い米国では、当然のことながら、これらの集団に対して、悪いイメージを持っていて、キリスト教の教えに反しているから、天罰が下ったと言われた。
現に米国の人気歌手のドナ・サマーは「同性愛者に天罰が下った」と発言して、同性愛者からの支持を失い、一気に人気が下降して、第一線から退いた。ドナサマーは「情熱物語」のヒットが80年代にあるものの、エイズが蔓延しだしてから、ヒットを飛ばしていない。
つまり、80年代にエイズに対するイメージを、多くの人々が作ってしまい、今でもそのイメージを引きずっているにほかならない。
エイズは、確かに病気であるが、これは、個人の問題である。もちろん、周りのサポートや理解は必要だが、それは、他の病気と同じように、本来、扱われるべきものの筈だ。
伝えないことで、後ろめたさを持つ必要はない。
自分がまわりに伝えるときは、それは、病気が理由で、一緒の行動ができない、無理ができないなどの理由があり、説明の必要があって、判断すればいいのかもしれない。世間は、エイズを特別なものだと思っている。
確かに、この状況下の中では特別なものかもしれないが、感染者自身が、普通に暮らしていこうと思うなら、自らが、まずは、「特別」から「普通」に変えなければならない。
最近、そんなことを考えています。
(おおいし・としひろ) ゲイでHIV感染者たちが、普段の生活のなかから、ポジティブ(HIV+)として考えたり、思ったりすることについて紹介していくコーナーポジディブ・ゲイ・スタイル。
HIV(AIDSウイルス)に感染して18年目をむかえたおおいし・としひろさんが、20周年に向けて新たに始めたブログPWA Speakerから文章を紹介しました。
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