QMblog's blog

レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

明治生まれの“おばあさん”たちの前では

それにしても、明治生まれの“おばあさん”たちは、圧倒的に女性に不利な時代をいきながら、後続の女性たちに圧迫感を感じさせるほどの存在感をなぜ獲得したのだろうか、不思議だ。男性に人間的な対応を求めることが少なかったために、かえって、純粋に女性としての内面像が形成しやすかったのだろうか。いずれにしても、明治の女の像は、その後の女性たちが自分自身についての考えるときの大きな基盤である。明治のおばあさんたちは、私たちのゴッドマザーなのだ。(井田真木子著『温泉芸者一代記』(かのう書房、1989年)、280ページ)

f:id:QMblog:20080518165807j:image
明治生まれの“おばあさん”の力から逃れられないのは、「後続の女たち」だけでなく、「ゲイの息子たち」もそうではないだろうか?




大正や昭和1桁生まれの同性愛者の先達の来し方や生き様をうかがう機会があるとき、拍子抜けすることがある。




彼らの口から語られる、亡き母への思いや追憶。それらを耳にしたとき、あれっ、と思う。なぜなら、私たちの目に前にいる彼らは「息子」というには、あまりにも年を取りすぎた“おじいさん”だから。




昭和1桁のゲイの息子たちは、決して明治の母たちを乗り越えることができない。そうわかるとき、ある意味で、ほっ、とする。




明治の空は、まだ江戸の空の色が色濃くて、「あちら側の空」という感じがあるだろう。とうに亡い母のことを語る、言葉は悪いが、昭和のゲイの女々しさや、情けなさを目の前にして、私は思う。なんだかんだいって、彼らは、今、私たちの上に広がっているのと同じ空の下、同じ側にいる同性愛者なんだ。と。



記憶をたどりながらライフヒストリーを語る彼らの部屋ではたいてい、日本髪に地味な和服を着た、その母たちが、キツそうな顔で、慰霊の中からこちらをじっと見ている。



(Arashi)



バナー

「FC2同性愛ランキング」。面白い記事だったら1clickでQMblogを応援☆