QMblog's blog

レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

『被差別と食卓』『エリゼ宮の食卓』 

『QM』の特集テーマにもなっている「食と同性愛」つながりで、本を2冊ピックアップしました。Shimada編集長による書評です。


「プライド」チキン

被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)


被差別部落出身の作者が、世界中を旅して、同じように差別を受けている人々が生み出してきた食に出会い、その歴史や状況を浮き彫りにしていく。

たとえば、日本でもおなじみの「フライドチキン」。



実は差別されてきた黒人たちの生活の中から生み出された料理です。



白人たちが食べないで捨てていた鶏の手足や頭といった部分を、なんとか食べようとしてディープフライにしたのが、そのはじまり、とのこと。


現在のフライドチキンは、普通に食べる肉の部分も、たまたま同じ調理法で作ったところ、
とても美味しくて、一般的な食べ物になったものなんだそうです。


被差別の側からしたら、自分たちの食文化が世の中に伝わっていく姿を見ることは、
誇らしい何かを生み出したように感じるのでしょうね。


食とは、民族や地域のなかで形づくられ、また個人の中でも思い出と深く結びついているもの。


『被差別と食』の中でも、「食」というものが、筆者自身がおかれている(おかれてきた)状況を確認し、そして、それを肯定するものとして描かれています。



私が物差しです

エリゼ宮の食卓―その饗宴と美食外交 (新潮文庫)

エリゼ宮の食卓―その饗宴と美食外交 (新潮文庫)


フランスの大統領官邸「エリゼ宮」で催される晩餐会。
実は提供されるワインや料理のメニューで招待者が格付けされているんです。


政治にまで「食」を使っていることがかわる極端な例です。


フランスという国家の、自らの文化と価値観に対する絶対の自信が伝わってくるエピソードです。


自らの文化の価値基準を使って相手を評価し、暗にそのことを相手に伝えているわけで、それは自国の文化に自覚的であり、その価値観が他の国や立場からみても通用するものであるというプライドがなければ、できないものです。


同性愛者の食?


『被差別と食』と『エリゼ宮の食卓』を読んで思うに、「食を考える」ということは、実は自分たちのアイデンティティを確認し、文化を自覚していくことなのではないでしょうか?


いち個人の食の思い出が、最終的には社会についての考察につながっていくということは、「食」が人間に共通なものであり、人間が社会的な動物であることを考えると当然のことなのかもしれません。


ひるがえって、同性愛者のアイデンティティや文化で食を考えてみるとどうなるか?


現在の「同性愛者の文化」といわれているものは、極端な言い方をすると、差別を受けてきた同性愛者たちが、「なんとか身を寄せるようにして」できあがってきた歴史を背景に持つもの、だと感じます。


現状では、「他の同性愛者と出会いたい」というとりあえずの欲求が満たされつつあり、そこからだんだんと「出会いの次」の文化が生まれてきそうな気配はある。



けれども、まだ気配に留まっているのは、「同性愛」の場合、クローゼットでいれば、考えなくても済む(もしくは自分の性的指向にむきあえないので、考えられない)ので、自分たちの生活を「同性愛の視点」で捕らえなおすことに慣れていない、そんなところに原因があるのかもしれないと思います。



これからの同性愛者の文化を作りあげていくのに、「食」というものが持つコミュニケーション・ツールとしての力、そして美味しさを通じた思い出を作る力を利用していくことは
とても面白いものになるのではないでしょうか?


そうしていくことで、初めて「食」は、同性愛者にとってもアイデンティティを確認したりする道具にもなり、場合によっては異性愛者にまで輸出できる同性愛者の誇れる文化をつくれるようになるかもしれない。



そんな風に思います。


(Shimada/QM編集長)