青森への旅〜寺山修司記念館
寺山修司記念館(2010年6月26日)
早朝の羽田空港を飛び立って、直接、三沢空港に乗り付けました。
そしてレンタカーで寺山修司記念館へ直行。
2010年6月26日から28日までの青森ツアーのスタート。
寺山修司記念館は、寺山修司の母親より三沢市に寄贈された遺品を展示するために平成9年7月に建設された記念館、とのことです。
詩人であり、歌人、俳人であり、随筆家、評論家、映画監督であり、作詞家であり・・・・・・。
本業を問われて、「僕の職業は寺山修司です」と返していた、という伝説がある寺山修司。
館内は、そんな「寺山ワールド」と表現する以外にない経験ができるような楽しい空間でした。
外壁にはいろいろ陶板が貼り込まれていました。
寺山修司と交流のあった約30人のメッセージや、テラヤマ作品を題材にしたものとのことです。
記念館の前のスペースには、炎天下の中、ムシムシコロコロJ.R.が待機中。
寺山の世界観に影響を受けた、あるアーティストが発明したそうです。
ムシムシコロコロに試乗してのTwitterのつぶやきです
@Arashi_QM / ムシムシコロコロJr。狛ネズミの気持ちでハムリング中〜。 ...
- 11:58 ハムスターのつもりでムシムシコロコロJr.に乗ったら「ブタスター」って言われた凹
- 11:56 ムシムシコロコロJr。狛ネズミの気持ちでハムリング中〜。
記念館の裏手の林から散歩道を向けて寺山修司文学碑へ。
故人を現在に生かし続ける努力
亡くなってしまった偉人の業績に、思いを馳せるとき、もちろん故人が生きた社会や著作、記憶など「過去」に属する領域に分け入っていくしかないのですが、その存在が、現在の私たちの生活の中にどのように息づいているのか?という「現在」や「未来」とのつながりの意識って必要だと思います。
どんな偉かった人でも、過去の人を過去の人として葬り去ったときに、そこから“風化”が始まる。
寺山修司記念館を訪問して感じたのは、寺山修司という1983年には亡くなっている人の世界観を、ポップで親しみやすい、いろいろな工夫を導入して、25年以上も経った現在でも、寺山修司の意志やエッセンスを現在の視点の中に蘇らせたり、あるいは、地元の市民の生活の中に生かして行こう、という「志の高さ」のようなものが感じられて、とても感心しました。
記念館を見学をして、同性愛者として生きた証やつながりが、亡くなった後には、強制的に切断されてしまうことが多い社会に生きている私たちにとって、同性愛という接点で、故人を偲んでいくコミュニティ・メモリアルサービスの運営を考えていく上で、とても参考になりました。(この一文は、実は、寺山修司がゲイだった、ということを言いたかったのではなく、一般的に故人の遺志を現在に生かそう、という観点から寺山修司記念館の運営が参考になった、という意味です。あしからず、です。)
ぜひ、また遊びに行きたいな、と感じました。
青森県三沢市
寺山が幼少時代を過ごしたという三沢市の現在は、
米軍三沢基地、六ヶ所再処理工場の所在地としても名前が知られています。
寺山修司記念館を設立するための財源は、
「資源エネルギー庁企業導入・産業近代化交付金事業」と記念館でもらったパンフレットに出ていました。
今回私たちが最初に降り立った青森県となった三沢空港は、日本で唯一、民間、航空自衛隊、アメリカ空軍の3者が使用する飛行場とのことです。
搭乗口も、羽田空港の超外れ、旅客機も那覇から石垣島行きの飛行機のような小型機でした。
民間用の空港としては、すごく小さな空港でした。
ここは北海道?と錯覚するような、空と道が主役のような風景の中、レンタカーを走らせ、三沢空港から、寺山修司記念館に向かいました。
寺山修司関連のツイート(@Arashi_QM)
@Arashi_QM: 40年前の昭和45年、寺山修司は、漫画『明日のジョー』でジョーとの激闘中にリングで死んだ力石徹の葬儀を執り行ったという。スゴい。
2010-06-26 15:03:54 via Keitai Mail
@Arashi_QM: 「力石は死んだのではなく、見失われただけだ」。力石徹の葬儀での寺山修司の弔辞の言葉。
2010-06-26 15:08:00 via Keitai Mail
@Arashi_QM: 生前、寺山修司は請われてゲイ雑誌『薔薇族』に詩を寄稿した。当時、ゲイの媒体はそれしかなかったけど、今ならどんなメディアに投稿するのだろう?
2010-06-28 15:19:46 via Keitai Mail