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レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

追悼、栗本薫さん

作家の栗本薫さんが26日亡くなったというニュースは、すでに皆さんもご存知だと思います。

●ソース:作家、栗本薫さんが死去(MSN産経ニュース)

「同性愛」との関連でいうと、栗本薫さんは、現在でいうところの「BL」(ボーイズラブ)という言葉もなかった1970年代後半から、小説の中に「男同士の恋愛」を描いてきた作家でもありました。アカーの事務所の書庫をチェックしたら、『翼あるもの』(文春文庫)が収蔵されていました。

本エントリーでは、栗本さんへの追悼の気持ちもこめて、栗本さんが生前、同性愛とエイズについて、評論家中島梓」の名前で書かれた書評を全文引用して掲載したいと思います。

掲載するのは、1996年当時、朝日新聞の書評欄を担当していた中島氏が、同性愛者として、そしてHIV感染者として生きる大石敏寛さんの著書『せかんど・かみんぐあうと―同性愛者として、エイズとともに生きる』朝日出版社)を書評欄で取り上げたときの文章です。

文章を読んで、栗本/中島さんが、「同性愛」をフィクションの中の単なる材料としてだけでなく、現実の世界の重要な問題として考えており、同性愛者たちに、真摯かつ誠実な姿勢で向き合っておられたという事実が偲ばれるものではないかと思います。

勇敢な生と死の凝視告白を通して偏見を問う
〜評者・中島 梓

大石敏寛著『せかんど・かみんぐあうと』

 芝居などとかかわっていれば身の回りにはやはり、普通一般よりは先鋭、繊細だったり、良識とは無縁な人間が多いせいだろう、同性愛も珍しくないし、同性愛のカップルも知人に何組もいる。だから私には、「カミングアウト」の痛切さはごく普通の「日本特有のムラ社会」の「常識ある市民」のあいだに生きている人びとに比べて感じ取れなくなってしまっているのかもしれない。
 
 HIV、エイズはきわめて象徴的な病であり、現代文明の縮図であるように見られがちであるがゆえに、ともすれば本来の「単なるひとつの疾病」としての本質を離れて啓示やあるいは罰や、あるいはメッセージ性と結びつけてみられがちである。しかしまた、同性愛者とエイズとをただちに結びつけて考えるのがあまりにも短絡であるのと同様に、エイズをその本来持っている重み以上の象徴にしてしまうこともまた危険であろう。エイズ・キャリアーであることをカミングアウトするのが「勇気ある行動」であるということは、同性愛者であることをカムアウトするのが同性愛に対する差別視が存在することの証明であるのと同様エイズに対する偏見と蔑視(べっし)と差別視が存在していることの証明である。最も問題とされるべきなのはこの偏見の存在であって、カミングアウトそのものであってはならないと私は思う。だがそれともかかわりのないところで生きている「一般人」はそれを特殊なこと、別世界のこと、自分とは関係ないこととしか受け取られない。それは致命的な想像力の欠如である。
  
 HIV感染者が「特殊」であり、同性愛者が少数者であり、そしてカミングアウトが「特別な勇気ある行為」である限りは我々は偏見から解放されていない。その二つの運命をたまたま持つことになった筆者が勇敢に死を見つめる中に生と自己を発見してゆく様子は感動的である。だが本当は、我々はつねに生まれ落ちたときから死に直面し、自分の内外にある差別意識に直面し、そして他人の共感と想像力を必要としているはずなのだ。これを特殊なメッセージと受け取る限り我々には他者への共感への道は開けないだろう。これは本当は、「すべての我々自身の物語」であるべき物語なのだ。

中島梓、『朝日新聞』1996年1月14日号より)

●当時の新聞の切り抜き

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●参考:大石敏寛著『せかんど・かみんぐあうと』

http://www.occur.or.jp/cmn/images/book/004.jpg
せかんど・かみんぐあうと―同性愛者として、エイズとともに生きる
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