本木雅弘と井田真木子
『AERA』誌(1992年10月6日号)の「現代の肖像」のコーナーより:
李*1は、撮影の後半で、本木がこう尋ねたことを記憶している。
「李さん、僕のことゲイだと思ってるでしょう?」
美少年アイドルとして出発した彼は、以前からその噂が根強かった。李がたじろいでいると、本木はこう続けた。
「みんな僕のことをゲイだと思ってるんだけど、本当はね、違うんだ。僕は、ただ、ゲイのふりをするのが上手なだけなんだよ」
ゲイであることは、若い世代の意識の中においては絶対的な醜聞ではない。彼らにとって、それは風変わりではあるがひとつの文化だ。そして、本木にとっても“ゲイのふり”をしてみせることは、複数ある自己像のひとつを演じることにすぎないのである。
だが、本木にとって最大のリスクもそこにある。ゲイのふりまでも、自己表現のひとつに加えてしまう過激さは、たしかに彼から元アイドルの残滓を払い落としたが、同時に、それは、大衆をターゲットとするメディアには規格外すぎる側面を持つ。
昨日のエントリーでも少し触れた、『AERA』誌(1992年10月6日号)の「現代の肖像」のコーナー
「本木雅弘〜脱アイドルの理論と実践」の回から、
ノンフィクション・ライター故井田真木子さんの文章からの引用になります。
記事が書かれた1992年当時は、マスコミでの「フェミ男」君ブームやゲイブームが華やかなりし頃。
記事にもそんな社会現象の影響が反映されていますね。
また記事の中の別な箇所で、井田さんは、本木雅弘のことを
まわしを締めても、スーツを着ても、化粧をしても、坊主になっても似合う。希薄なリアリティと奇妙な存在感。
と表現しています。
今なら、ここに「納棺士になっても似合う」という言葉が含まれることになるのでしょうか?
フェミ男君もゲイブームも、時代の水平線のかなたに消えてしまった2000年代も終わろうとしている、現在。
さてさて『おくりびと』で、納棺士を演じたモックンを、もし井田さんが存命なら、どうやって書いたのでしょうか?
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