ゲイ・ライツは根付いた
< 「ゲイ・ライツは根付いた」 >
ハーヴェイ・ミルクが市政執行委員になったのと時を同じくして、さまざまな反ゲイ的な運動が台頭してきた。
1977年には、サンフランシスコでホブ・ヒルスボロウというゲイが、青年のギャング集団によってゲイであることを理由に殺害されたり、カリフォルニアでは保守派が公の道徳観を復活させようという動きに出た。
また1978年の1月にはグリックス上院議員が同性愛者を公立の学校の教職から禁ずる法律を制定するようにプロポジション6という法案を提案した*1。
このような保守派の反ゲイ運動に対しては、ハーヴェイ・ミルクが反対運動を展開し、同年の11 月にはこのブリックス提案は、カリフオルニアの有権者の58 %、サンフランシスコの有権者の75%の票をもって否決された。
1978年4 月には、サンフランシスコ市のスーパーヴァイザー委員会は、非常にリペラルなゲイの人権条例を可決した。
【つづく】 「サンフランシスコ・ゲイ・コミュニティ形成史」
※(本記事は当時のアカーの機関紙『ゲイ・ライツ』の1993年臨時増刊号に掲載された同名記事をベースにしています)