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レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

「ジョージ・チョイについて思うこと」(2/3)

「ジョージ・チョイについて思うこと」(2/3)


そして、今回本書の著者である井田真木子さんの追悼にあたり久々に再読し、また、メモリアル・サービスでの映像、アカー会員との会話を通して、本書における彼の描き方についての受け止め方が変わっている自分に気づいた。

井田さんは、府中裁判支援の映像のなかで「同性愛の問題を社会に衝突させるというのではなく、どうやって軟着陸させるか、を考えている」と述べていた。

「軟着陸」とは何だろう。対決を回避して、曖昧に溶け込ますことだろうか。
いや、爆発炎上ではなく、なんとか生き延びるよう丁寧な操縦を見守る、ということではなかったのか。そう考えると、彼女の単なる”取材者”という立場を越えたスタンスが見えてくる。



日本の同性愛者をめぐる状況は、「アメリカとは異なり、真綿で締め付けるように表には見えにくい側面が多い。日本に居ては自覚しにくい日本的状況」を井田さんはなんとか描こうとしていたのではないだろうか。



おそらく、そのために、ジョージは必要にして不可欠な登場人物となった。



日本に比べれば、一見先進的で恵まれたアジア系アメリカ人の同性愛者たち。
しかし彼ら、彼女らもそれぞれの文化的ルーツ、社会的立場に縛られていて、ジョージも例外ではなかったと思う。それが生育の記憶であり、血縁家族、文化的コミュニティの価値観、宗教の影響として心身に抗いがたく染み渡っている。



井田さんは、ジョージの精神的に悪化した状態を解釈抜きに敢えて書いたのだろう。それは、ジョージにその言葉をはかせた状況に注目したからではないのか。彼の言動を率直に描写することにより、そのルーツとセクシュアリティの根深さを表現したかったのではないのか。



「神様が僕を違う人にしてくれる」


「もう同性愛はやめるんだ。そしたら新しい命を与えてくれる」…。


彼は生きたかったんだ、あるいはエイズという病から解き放たれたかったんだ、そういう叫びにも聞こえる。


これは同性愛者が異性愛主義に“転向”しようとする発言ではないし、そのような解釈でもないだろう、と今では思える。
ジョージの朦朧とした心の風景を淡々と記そうとしたのだろう。



ジョージの変貌は、彼に関わってきた人々を戸惑わせた。
自分も目前にしていたら驚きショックを受けたと思う。

ジョージ・チョイについて思うこと

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