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レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

「1993年6月ベルリン」〜井田真木子と私

「1993年6月ベルリン」〜井田真木子と私 (文:菅原智雄)


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1993年6月、ベルリンでの国際エイズ会議

あのような文章の力がどこでどう作られるのか? 井田さんは読む者にその情景がすぐさま立ち上がるような迫力で、居合わせた出来事を描ききっている。



アカーには1993 年6月でのベルリンで記録した1本のビデオテープがある。大石敏寛が閉会式でスピーチをする模様が収録されているものだ。同行していた者にとって、その映像を見るだけで鳥肌が立つような出来事であったが、井田さんの文章を読むともっと驚かされることがある。



写真やビデオだけでは、語りつくせないその出来事の意味が、その場に居合わせた井田さんの眼によって実に正確に捉えられているからだ。


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この本の後半に位置する「第八章 そしてベルリンにいた」のくだりは、1993年6月にアカーの大石を含むメンバー5名のベルリン国際エイズ会議への参加渡航に井田さんが同行した時の取材にもとづいている。



翌年に日本で初めて国際エイズ会議を横浜で開催するにあたり、日本政府は古い発想の法律を引きずったままでいた。エイズ対策に極めてあいまいな態度しかもたない日本に問われていたのは、この数年来の国際エイズ会議で受け継がれていたエイズ対策における現実的な柔軟姿勢を日本は明確に受け入れるのか、またはなんとなくお茶を濁して済ますのかであった。


私たちに引き寄せて言えば、「日本政府がHIV感染者および同性愛者を排除する対象ではなく、公にエイズ対策を行う対象として認知するのかどうか」である。

渦中にいる、ということ

私たちはベルリンに立つ前、向こうでどんなことが起き、それがその後どういう意味になるかを分かっていなかった。井田さんも何が起きるかは分かっていなかったらしく、分かっているのは

「自分が予期しない事態に巻き込まれているということだ」

とこの本の中で書いている。


ベルリンの会議場内では、感染者の窮状(きゅうじょう)に聞く耳を持たない製薬企業を過激なパフォーマンスで抗議し続ける風景が常時見られ、そんな中で開かれた日本の組織委員会の記者会見には、これまでアカーが培ったコネクションによる世界中のレズビアン&ゲイをはじめとする活動家が押しかけ、入れ替わり立ち代り日本の曖昧な態度をただした。

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日本の組織委員会は、そのような策を講じたアカーに激怒し、私たちが配布したビラの内容に文句をつけていたが、会期終盤にさしかかるにつれ、これらの外圧に対しての危機感も手伝い、国際的なエイズ感染者団体のある提案を呑んだ。それは最終的に対外的に態度を明確にした証として、閉会式での日本側のスピーチとして日本人の同性愛者でありHIV感染者である大石にスピーチをさせるという提案である。この時大石とアカーは、日本のエイズ政策に関与する立場になんとかこぎつけたと言える。ベルリンに出発する前とは本当に大きく状況が変ったのである。

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この本(『同性愛者たち』)は、94年の年明けに出版された。そのため、府中裁判の一審判決や、横浜エイズ会議の成功など、さまざまな結果が出た激動の1994年の動きは、触れられずに終わっている。

あのときから14年を経て

あのベルリンから14年を経た今、『同性愛者たち』を読み返してみると、その後の5年から10年の状況の変化があのベルリンの出来事を起点に湧き出ているように感じられてしょうがない。


井田さんは、この本の中で、

「〜異文化勢力によってもたらされた《この事態》は吉とでるのか、凶とでるのか。それは今のところ、見当がつきそうもない」

とその後の流れを予測していない。そこに居合わせた井田さんの眼があの時のはりつめた、手に汗握る、あの場の空気を正確に描くだけである。


結果として今からに見ると、日本のエイズ対策は、ベルリンから横浜にかけてのさまざまな議論と経験の中で、ゲイ・コミュニティをはじめとするさまざまな当事者コミュニティーの存在や経験に価値を認め、エイズ対策の担い手として対等に扱う第一歩を踏み出すことになった。これが法律(エイズ予防指針)の上で具体化されるにはその後6年を費やし、その法律にもとづいて各地の自治体が、同性愛者のNGOに同性愛者向けのエイズ予防啓発事業を個別施策層対策として実施するようになるのはさらに数年を要した。長い年月の中で着実に前進してきたこれらの発端は1993年6月のベルリンにあったということを井田さんが遺した描写を通してあらためて強く感じる。


「《この事態》は吉とでるのか、凶とでるのか」と考えあぐねた井田さんの予想は、ゆっくりではあるが吉とでていると思う。

菅原智雄)


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