「劇性を乗り越えて」〜藤野千夜『夏の約束』(Arashi)
「劇性を乗り越えて」〜藤野千夜『夏の約束』(『QM』2000年3月号より)
「夏になったらキャンプに行こうよ」
それが、彼(女)らのささやかな夢です。
たぶんぼくらと多分同じように、彼/女らも、例えばギンガムチェックのトランクスも履けば、コンビニでお買い物をするような平凡な日常を生きながら、時々思い出したように、キャンプへ行きたいな、とちょっとした非日常への脱出に思いを馳せたりするのでしょう。
そこでは、ゲイ・カップルも、トランスセクシャルの女性も、現実離れした「哀しくおぞましい生き物」ではなく、平凡な生身の人間という感じがします。
藤野千夜の『夏の約束』は、「普通の」男女の、異性愛という枠組みに当てはまらない人々を「普通に」描いた作品です。
どれだけ作者が、「普通さ」を出すために細心の注意を払っているか、ということを雄弁に示している一つのリストがあります。
これは、「夏の約束」を読んで、私が作成したものです。
「メニュー」(彼/女たちが食したもの)
- 麦トロ
- 牛タン塩焼き
- カツカレー
- シシカカブ
- タイ風さつま揚げ
- ポテト・サラダ
- 冷やしとろろそば
- ウーロン茶
- スイカ
- 激辛地獄焼きそば
- フランクフルト
- バーボンのソーダ割り
- 回転寿司
- 食パン
- 「まるごとバナナ」
- プリン・アラ・モード
- 夏みかん
- 京風たこやき
- カヌレ
- フライド・チキン
- 「コールスローサラダ」
- 紹興酒
- あんかけ硬焼きそば
- 鶏肉と甘栗の炒め物
- トマトと卵のスープ
- 春巻
- エビ炒飯
- ひき肉とほうれん草炒め
- 中華ちまき
- 筑前煮
- カニピラフ
- みそラーメン
- フラボノイド入りのガム
- 他多数
文芸春秋に載った三十数頁の『夏の約束』を読むあいだに、5、6人の登場人物が、40品目以上の料理を胃袋に流し込む訳です。当然ながら、彼/女らは黙々と食べているわけではなく、会社であったこと、飼い犬のこと、友人のこと等、莫大な量の「日常の言葉」をも同時に吐き出しているのです。これなら誰がこの作品を読んでも、登場人物を「身近」に感じるに違いありません。
この作品の評価の基準は、どこか夢のようなこの「平凡さ」にあるように思います。選者には、「夏の約束」が、セクシャル・マイノリティを登場させながら、軽すぎてグッとくるものがないと、不満に思っている人もいるようでした。表面的には、社会を告発するような論調が「夏の約束」にはそれ程感じ取れないからです。彼らには、同性愛者や性転換者は本来日常の「向こう側」にいるものであって、そのような者たちを扱うなら、「向こう側」から「こちら側」に訴えてくるものを描くべきであるという、そんな無意識の期待があったのかも知れません。
そんな期待を押し返して、向こう側にいるはずの性的少数者の日常を書いた『夏の約束』は評価されるべきだと思います。ところが、選者のひとりである石原慎太郎氏はその意味すら認めようとしていません。石原氏は作品に次のような痛烈なコメントを叩きつけています。
藤野千夜氏の「夏の約束」はホモという異常な世界を余儀なくする主人公たちのスケッチだが、これがまともなヘテロの人間世界だったら何の劇性もありはしない。そういう批評は偏見に依るものだいわれても、私にはあくまで一人の読者として何の感興も湧いてこない。平凡な出来事の中で描いてホモを定着されることが新しい文学の所産とも一向に思わない。私にはただただ退屈でしかなった。(『文芸春秋』2000年3月号、363)
「ホモという異常な世界」? 「何の劇性もない」? ゲイとしては、たしかに聞くに耐えないとんでもないコメントですが、ここにひとつのおもしろい事実に気づきます。それは、石原氏にとって問題になっているのが、実は「ホモの異常さ」よりも、文学の「劇性」にある点です。つまり、石原氏にとっては、作者が性的少数者だからつまらないのではなく、作品が「劇的」でないから不満なのだということです。明らかに石原氏は「ホモ嫌い」でしょうけど、彼がもっと嫌っているのは、小説に書かれる「日常の平凡」なのです。
食卓での会話が、箸と器が触れる音が、時々漏れる咀嚼の音が、そのようなあらゆる些細で重要でないことを延々と書いた小説がお嫌いなのです。おままごとについてなんか読みたくない、男には、より重要な仕事、例えば政治があるではないか、というわけです。彼は『夏の約束』に「女々しさ」を感じとってしまったのではないでしょうか?
自らに「偏見がある」と居直ってまで、石原氏が守ろうとしているもの。それは彼の「男らしさ」だと思います。では、一体どんな作品なら許せるのか。多分、かつての盟友がそうしたように、超越的な何かを目指す男たちが、いわゆる「女の領域」に背を向けて、ハラキリをするようなお話なら彼の気に召したかもしれません。海なり、荒野なり、宇宙なりに出ていって冒険をする英雄たちのお話。
本当にマッチョな男はそもそも小説など読まない(これ妄想?)はずですが、そのマッチョな石原氏は小説家です。だから、不安なんでしょうね。男性的な「劇的な」要素で文学をも埋め尽くしたいと感じている。かたや男性から女性へのトランスセクシュアルである藤野千夜は「日常性」でそれと戦っている。そんな構図を想像してしまいました。
確かにこの男性的/女性的という分け方は、単純すぎると思いますが、事実、藤野氏の読者には女性が多いそうです。
そして程度の差はあれ、この戦いは、僕の中にも、あります。『夏の約束』の「日常」の些細なひとこま、ゲイのカップルが町中で手をつなぐシーンを読んだとき「気恥ずかしさ」を感じました。日常や恋愛のかけひきを、退屈と感じる感性、それは何ら絶対的な価値基準に基づくものではなく、この戦いと多いに関係がありそうです。
(Arashi/2000年2月) ↑ 面白い記事だったら1clickでQMblogを応援☆