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レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

3つの会食〜HIV+の視点から〜

『食と同性愛』の関係 について考えた号(2005年Ⅳ号)からKenjiさんのエッセイです。


  • 1993年にHIVに感染して、現在30代のゲイである私が、周りの人間との関係を意識し、その関係性のなかでどのような態度をとるのか、を考える上で忘れることができない3つの「食の場面」があります。

1:ポジティブの食事会(1993年)

1993年のころの話です。

当時、日本にはほとんどいなかった、感染者であることをカミングアウトしていた故・平田豊さんが、他のポジティブ(感染者)を集めて食事会を開き、私も参加したことがありました。



まだ有効な抵HIV薬もろくにない時代でしたから、会場全体をおおっていたのはとてつもない「悲壮感」でした(私自身、感染を知った直後で、到底肯定感など持ちえなかったから、そう感じただけかも知れませんが)。



食事会の参加者たちは、日々の重圧の中、自らの気持ちの整理をするのが精一杯で、とてもでないけど「一緒に参加した人のことまで考えて、尊重しあう・・・」というような悠長な場ではありませんでした。



けれども、食事の場をつくった意図としては、感染者同士で食事を共にすることで、少しでも前に進もう、という前向きな意思はあったように思います。




(余談ですが、さばの刺身が出てきたりして、免疫が落ちている患者さんもいるのにいいのかな〜なんて思ったこと覚えています。やはり、もてなす方法や意識は、もっと洗練されていてもよいのになあ、と今から考えると思ったりもします)。



2:中野区の「トライアングル」(1996年頃)

それから数年後、大体1996年か1997年の頃の話です。


そのころ、アカーの事務所のある中野区の保健所では、保健士さんが中心になって設けた、感染者同士が交流できる「トライアングル」という場がありました。



栄養士さんが栄養について教えるために、みんなでちょっとした料理を作って、それを食べながら交流するといった企画で、感染者以外には、異性愛者の保健婦さんや栄養士さんもそこに混じって交流していました。



ところが、感染者といっても実際にくるのはゲイの感染者ばかり。



いつしか、料理をいっしょに作って楽しむ企画は、料理自慢のゲイがレシピを紹介する場に変わっていきました。



そういう風に一緒に作業したりするなかで、感染の衝撃から自分を取り戻していく人もいましたが、私が、ひとつ難しいな、と思ったことがあります。



それは、同性愛者であるということはどうするのか、ということでした。



その場は、感染経路は関係なく、色々な人が集まる場という設定だったため、来る人たちには、同性愛も異性愛も関係なく対応するという理念のもとに運営されていたように思います。



でも、こちらから見ると、どうみてもみんな「そう」なのに、あえて異性愛の話も同性愛の話もしないで交流するなんていうのは、ある意味でその人の存在を切り貼りしてしまっているような、何かよそよそしさを感じてしまう部分もありました。



結果的に、当たり障りのない会話ばかりで、すごく楽しい場というわけにはいかなったように思います。



同性愛者であることはノータッチ、ということだけでは、きっと、その人にたいする尊重はできないのしょう。



3:ポジがデートするとき(199×年)


3つ目の経験は、もっと個人的な経験から。


ちょっといい感じになってきた男とデートしたときの経験です。



「つきあおうかな〜」と思い始めていたので、感染していることをいつ切り出そうかな、と思い悩んでいたときの話です。



何回か会う中で、「いきなり(感染していることを)言うのはな〜」とか「この楽しい雰囲気のなか、切り出すのは大変」と考え、「そもそも告げる必要ないんじゃないか?」とか「でも言わなきゃ、後でわかったときなんか言われるかもしれない」なんて感じで、デートはうれしい半面、このような自問自答の状態ですから、食事していてもなかなかなかなか、楽しむどこじゃない。



せっかくよい雰囲気なのに、気苦労ばかりが大きかった、ということがありました。




大前提として「拒否られたらどうしよう」いう心配があり、ポジティブとして肯定ができずにつらいところではあったのかもしれません。




結局自分のことを肯定できないと、せっかくの距離を縮める効果のある「食」も効果半減だということです。


  • 以上が、私が経験した3つの食の場面です。

ここで、それらを以下のように分析してみたいと思います。



  1. 交流して、前向きになりたいけれども、参加する側も大変な状況だし、場を提供する側もどのように場を作ればよいのか術がわからないという例。
  2. その場に行けば「感染者」として扱われるけれど、「セクシュアリティ」(私の場合「同性愛」)は無視される場の例。つまり、ある側面で、尊重というものがないままに、場が設定されている例。
  3. ゲイであることは前提だが、私自身に余裕と自己受容がなくて、完全に「食」を楽しむというところまではいかない例。
  4. 「場をつくる人たちへの理解」「ふさわしい場をつくる術」「相手を同性愛者として肯定すること」「同性愛者である自身の肯定」。


コミュニティでの食を楽しむには、これらが必要なのではないでしょうか。

「肯定と尊重」の先は?


こんなふうに「共食」というものを考えていくと、結局「相手も尊重して、自分も尊重して楽しむ」ということに行き着くと思います。



もちろん、この「尊重」には、私たちの場合、ゲイでありレズビアンである部分を尊重する、ということを含める必要があります。



しかし、一般社会にはそこまで含んだ「尊重」を与えてくれる場など、まだまだありませんから、まずは自らのコミュニティからはじめるしかありません。




つまり「同性愛者である相手を尊重して、同性愛者である自分も尊重して生活できる場」とはまだ、まだこの社会では、同性愛者のコミュニティの中にしか存在しないということです。




生きていくことに密着し、なおかつ基本的なコミュニケーションツールである「食」。




そこに注目することは、より充実した同性愛者のコミュニティづくりに役立てることができるのではないか、という風に思います。



私たちが、もっと食を楽しんでいくことができれば、コミニティの成長という希望がそこから生まれると思います。

(Kenji)

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