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レズビアン&ゲイライフをサポートするNPO法人アカーのWEBマガジン。編集部:「ふじべ・あらし」がお伝えしています。

2つの部屋〜『彼女がその名を知らない鳥たち』(沼田まほかる)と『蝶のかたみ』(福島次郎)

 ストーリーは、クライマックスに向かって進むものだけど、クライマックスが訪れた後も、ストーリーを考え続けてしまう、そんな世界を持っている話こそ名作だと思います。最近、薦められた
『彼女がその名を知らない鳥たち』 (沼田まほかる)は、そんな話でした。今でも、ずっと「落下し続けているような感覚」が続いています(読まれた方にしかわからない、笑)。


彼女がその名を知らない鳥たち


さて、この『彼女がその名を知らない鳥たち』を読んでいて、昔、読んだある小説の一場面をふと思い出すところがありました。そして、そのときの気分も、あわせて蘇ってくるような場面です。引用します。

ここしばらく陣治の部屋には足を踏み入れていなかった。部屋はもともと不潔で雑然としていたが、それにしても今のこの惨状は異様だ。正気のタガがはずれてしまったとしか思えない。誰かが大慌てで逃げ去ったあとのように荒涼としている。夏物も冬物も下着類もソックスも、少ない手持ちの衣料のおおかたが、畳やベッドや机の上に撒き散らされていて足の踏み場もない。そのどれも脂じみ薄汚れている。



椅子の足元に、灰皿がひっくりかけって大量の吸殻が錯乱している。ところかまわず転がっているビールの空き缶の幾つかにも、ねじくれた吸殻がぎっしり詰め込まれている。山積みの屑入れのまわりに、さらに山になって菓子パンの袋や丸めたティッシュペーパー、真っ黒になったバナナの皮などが折り重なっている。(中略)


唾液を飲み込もうとすると、舌の付け根から生臭い恐怖の味が滲み出てくる。怖い。湿ったゴミの山が怖い。空き缶の開口部から突き出た捻じ曲がった吸殻の束が怖い。そっとにじり寄ってきて、十和子の内部の空虚とつながろうとする空虚が怖い。あの空虚を呼び寄せてしまうこの空虚が怖い。腕を回して自分で自分を抱く。

ゴミ溜めと化した部屋。それについて読むとき、ヒトは、なんでこんなに不安になるんでしょうか?(笑) たとえ自分の部屋がそんなに散らかっていなくても、たまらなく不安です。



さて、上の箇所を読んでいて思い出しのは、福島次郎(1930年〜2006年)の「蝶のかたみ」という中篇の一場面です。



蝶のかたみ



7、8年ぶりにその本を引っぱり出して、その場面を探してみました。ちょっと長いけど、がんばって書写してみました。福島次郎であろう主人公が、急死した弟の、生前住んでいた部屋に、遺品整理のために初めて足を踏み入れる場面です。こちらのお部屋は、さらに凄惨です。

それは足の踏み場のない乱雑さというより、複数の狼藉者が何かを必死に探し回ったあとのような感じで、衣服、下着、座布団等の類が、入り乱れ、こねくり回され、凹凸の山と谷をなしていた。




三部屋の一つと思った、上ってすぐ右手の空間はもともとバスルームで、使用しない浴槽の中にいろんなものが放り込まれた上に、更に積み上げ天井まで届いていた。床のタイルも見えぬほどものが散乱し、その中から様式のトイレだけが蓋もなく、その汚れた口を開けて突っ立っていた。



上がり口の四畳半一ぱいにひしめくぼろの山をのりこえ奥の六畳へいくと、そこもただならぬ散らかり様であるが、真ん中の部分には畳も見え、緋色の座布団の前には、飲みかけの葡萄酒の瓶と切り子ガラスの杯、ピンク色の電熱器と、同じピンクの布カバーをしたその傍らの小卓の上には、新しい出刃包丁が置かれていた。



開けられたままの押入れの中の放埓な散らかりぶりに溜息をつきながらふと左手の隅を見ると、その三角地帯だけ別世界になっていた。



そこには、緋毛氈が敷かれた五段の壇に、男雛女雛、三人官女、右大臣左大臣、五人囃子までが、見事に飾られていた。それも小さな雛ではなく、大型の立派な面ざしの雛たちだった。スイッチを入れると、対の雪洞(ぼんぼり)に灯がともるようになり、傍らの壷には大ぶりの桃の花さえ活けられていた。亡くなったのが、三月十二日の零時二十分。おそらく三月三日の前から飾りつけて、弟は眺めくらしてきたのだろう。桃の花は新しいのと取り換えているのか、切ったばかりの美しい色をしていた。



この一角だけが、弟にとって大切な夢の小宇宙だったのか、雛壇だけでなく、その両脇には、アールヌーボー風の電気スタンド、小さな陶器人形や布製の這い這い人形などが、三段のガラスケース一ぱいにこまごまと並べ置かれていた。わきの壁面には、雛人形を錦絵風に描いた綿密画と、観音像を幻想的に描いた日本画の掛け軸が、並んでさげてあった。



酸鼻をきわまる有様をみた直後の私にとっては、その空間はむしろ別の意味の不気味さがあった。狂女の乱れ姿を下手に描いた絵草紙をのぞくような、蛇娘などの見世物小屋の極彩色絵看板でも見るよう感じに襲われ、弟の部屋ながら、もうここには一刻もおれないという気持ちにせきたてられた。



沼田まほかるは現在、50歳代の女性の作家で、福島次郎は、去年(2006年2月)76歳で亡くなったゲイの作家です。その性別も、セクシュアリティも、作風も、時代背景も、男の好みも、文学観も、育った環境も、たぶん何もかも違うであろう、両者ですが、読んでいたとき、私の中では、絶望的なこの2つの部屋がつながっていたかのように、両者の間に(勝手に)リンクが張られてしまいました。



沼田まほかるはともかくとして、福島次郎は、ゲイである私にとって、大切な作家だと思います。かつて20代前半の私が、『QM』誌(正確にはその前身の雑誌ですが)をきっかけにして、読む機会を持った作家です。いろいろな意味での、そのエグさにドン引きしたのを覚えています。それを、10年近い年月を経て、再び読み返すとどうなのか? 私のテン・イヤーズを考える意味でも、そして、私たちの前の世代の「昭和の同性愛者たち」に向き合う、という意味でも、これは取り上げる価値のある大切な作家だと思います。



というわけで、これから何回かに分けて、この「福島次郎」という作家について、紹介していこうと思います。ご期待ください。



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